なんか最近気づいたんですけれど、私は頭がとても悪いです。
それも、重症です。
人と比べて、自分の能力の低さに劣等感を感じていました。
自分の中で、誰かと比べても、幸せになれないと分かっていながら、私は過去の自分と比べないで、誰か他人と比べていました。
そうすることで、何かをできないことのせいにしたり、悲劇のヒロインを気取りたいのかもしれません。
過去の自分と比べて、今の自分が充実していたら、それでいいのに、それでいいのにです。誰かに褒められたことは、それはそれで嬉しいです。しかし、そんなことに、拘っていても幸せはこないのです。自分よりも、有能な人から見たら、自分なんていくら努力しても、痛いだけの、努力家気取り。自分よりも、無能な人から見たら、天才。価値観の違いです。
自分の中で、悔しかったり、できなくて残念なことを数えるよりも、楽しいことや、やっていてよかったなと思うことを数えた方が生まれてきた意味を考えます。
小学生の頃は、私の人生を楽しんでいました。
それでよかったです。
楽しいことを突き詰めていたので、苦しいなあとかできなくても残念だなあと思いましたが、それなりに、充実していました。
今女性の多い職場なので、より結婚できたかとか、子供がいるかなど、自分の力ではどうすることもできないことを、悩んでいるのをみて、私は自分のできることを全て力を使って、頑張ってもできないことを諦めることにしました。
パソコンでバカにされたので、パソコンのできる自分。
コミュニケーションでバカにされたから、コミュニケーション能力の高い自分に、憧れていました。
それをやめようと思います。
悔しいけれど、悔しいけれど、そんなものに拘っても幸せはこないと気づいたのです。
女性たちの会話を聞いて、思ったのです。
自己満足でしかない。
人生は、悔しくても、辛くても、誰かを悲しませなければ、幸せな道を歩んだ方がいいと、能力がいくら高いから、幸せかとか。誰かと結婚できたから、幸せとか、そんなものに拘る必要がないのです。
だから、自分にとって、自分の充実した幸せを選ぶために、頑張ることにします。
このブログを続けることが苦ではないことのように、書くという行為は、意味不明らしいですけれど、私は好きみたいなので、自分のできないことを、無理して続けるよりも、自分のできることは何もないけれど、自分の興味の赴くままに、生きてみようと思います。
生きていることが許される限り、なんであんなことしたかわからないとか、後悔しても、しょうがないのです。
もう終わったことは引き返せないのです。
誰かが決めた幸せは、誰かにとっては不幸せなことなど、色々あるのです。私にとって、今までの人生は重荷でしかなったのです。
多分こうしたら幸せと、考えてくれた、コースを走ろうとしていました。
走る必要などないのにです。誰にも頼まれていないのに、頼まれてような気になっていました。
結論。人と比べず、自分の中で楽しいことを突き詰めることにします。